PETER DOIGの絵


週末、かなり久しぶりに四条河原町界隈へ出た。特に用事もなかったので、昔住んでいたマンションを目指してぶらぶらと歩く。7年ぶりぐらいだが、特に何も変わっていないな、と思っていたら、すぐ近くに町家を改装した本屋ができていた。EUREKAという店名の、アート洋書専門の本屋さんで、いつも開いているわけではないらしい。すごくアートに詳しい店員さんの話を聞きながら、PETER DOIGの画集を購入する。PETER DOIGは、もう何年も前から「アマゾンのほしい物リスト」に画集を入れたままになっていた画家だ。こういうものは、たいてい買わずに忘れてしまうのだが、今回は違った。出会った時が買う時だ。

PETER DOIGがどういう人物なのか、実はよく知らない。かなり売れている画家、というぐらいの知識しかない。このインターネットの時代、調べようと思えばいくらでも調べられるのだが、あまり知りたいとも思わない。これがインスタレーションや映像作家なんかだと、出身国や年齢・思想など、バックボーンを知りたくなるのだが、画家に関しては、何故かそういう気持ちが湧いてこない。絵そのものへの興味だけが強くある。

PETER DOIGの描く絵は、とても魅力的だ。好きか、と問われると、ちょっと答えるのが難しい。好き/嫌いでは単純に分けられない、非常に「気になる」絵なのだ。なぜそのモチーフを描こうと思ったのか、どの部分から描いているのか、下絵はあるのか、あるとすれば下絵の段階で、どこまで完成形を見据えているのか。興味が尽きない。そして見ていると、自分も絵が描きたくなってくる。売れるとか売れないとかではなく、絵を描く行為そのものに快楽があることを、思い出させてくれる。

混ぜっ返し方


もう数カ月前になるが、必要があってギターアンプのことを調べていた。なるべく小型で、家で使うのに適したものを探し、ネット検索を続けるうちに、2ちゃんねるの掲示板に行き着いた。ミニアンプの製品名をあげて、これは音がいいとかあれは使い勝手が悪いとか、意見を交換する。そのうちにある人が「このアンプはゆがみがいまいちだ」という趣旨のことを言った。それに対して別の人が「ゆがみじゃなくてひずみね」と返す。漢字で書くとどちらも「歪み」だ。あっという間に「ゆがみ」派と「ひずみ」派で論争になった。

素人の僕からすると、別にどっちでもええがな、という問題なのだが、ネット上の喧嘩は一度火がつくと止まらない。「ひずみなんて言うやつは周りにいない」「それはお前が下手だからだ」などと、言葉はエスカレートしていく。こっちはそんなことよりアンプの情報を知りたいのだが、困ったな、と思って読んでいたら、こんな人が現れた。

じゃあ俺はこれから「ねたみ」って読むわ。

第3勢力「ねたみ」が現れた。不毛な喧嘩に飽き飽きしていた人達は、一気に「ねたみ」派にまわった。「マーシャルのこれはねたみが凄い」「俺もそのモデル持ってるけど、あんまりねたまないな」などと、普通にギター用語として流通し始める。さらには「大型のチューブアンプに匹敵するそねみ」などと、さらりと第4勢力を混ぜたりする輩も現れた。楽しい。話題はまたミニアンプの意見交換に戻り、喧嘩は静かに消えていった。

こういう「混ぜっ返し」のうまい人が、ネット上にはときおり現れる。どちらの側にも立たず、その喧嘩の馬鹿馬鹿しさをさらりと気付かせてくれる人。きっと仕事も出来るに違いない。嫁は美人で家庭も平和、周囲からの信頼も厚いのだろう。いやあ、ねたむなあ。

伊勢神宮


伊勢神宮に行って来た。今まで自分が「日本」だと思っていたものの多くは、「京都」のことだったのではないかと感じる。生まれ育った場所によって日本観が違うのは当然のこととしても、ずいぶんと京都よりだったのだな、僕は。ニュータウン育ちで、そんなに京都文化に触れていたわけでもないのだけれど。