メトロポリスと睡眠


先週の土曜、京都芸術センターにて行われた『メトロポリス伴奏付上映会』に行った。これは、無声映画『メトロポリス』(監督:フリッツ・ラング、1927年、ドイツ)に、音楽家が新たな音楽を作曲、上映にあわせて生演奏をするというイベント。演奏するメンバーに、昔から好きな『mama!milk』の二人が入っていたこともあって見に行くことに決めたのだが、少し不安もあった。「寝てしまうのではないか」という不安だ。

『メトロポリス』はSF映画の原点と言われる名作で、これまで何度も見ようとしたのだが、毎回あっという間に寝てしまっていたのだ。なんせ1927年の無声映画だ。当時はおそらく、目の前で映像が動いているというだけで客は退屈しなかっただろうが、2015年の刺激に慣れ切った僕は、冒頭の「管理された近未来の描写」の部分でもう居眠りをはじめる。全部見たら絶対面白いことは分かっているのに、寝てしまうのだ。(余談だが、2001年公開の日本のアニメ映画『メトロポリス』も、開始10分で寝てしまう睡眠映画だった。そこを引き継いでどうする。)

そんな不安を抱えつつだったのだけれど、結果、まったく眠くならずに楽しめた。生演奏はさほど大きな音量ではなく、伴奏に徹している感じだったのだが、適度にメリハリが効いて飽きさせない。おかげで、最後まで緊張感を持って見ることができた。そして、初めて全編を通して見た映画『メトロポリス』は、すごく面白い映画だった。いやあ、名作ですよ。知ってると思うけど。

古事記を読み終え、また読む


ようやく、鈴木三重吉の『古事記物語』を読み終えた。キンドルで無料ダウンロードしたのは、もう何ヶ月前になるだろうか。なぜこんなに時間がかかったか、理由ははっきりしている。面白くなかったからだ。面白くないので、例えばお風呂で読んでいてもすぐ眠くなるし、布団の中で読んでいても眠くなるし、椅子に座って読んでいても眠くなる。誘惑には弱い方なので、眠くなったら寝る。結果、なかなか進まないのだった。

古事記には、いわゆる主人公がおらず、神様や人物がどんどん現れては消えていく。ひとつひとつのエピソードも淡々と、関連性も見当たらないままに続いていくので、油断するとすぐに話を見失う。鈴木三重吉が読みやすくしてくれているので、文章に難しいところはないのだが、やっぱり「面白い」というものではないのだった。そもそも古事記は歴史書であって、読者を面白がらせる必要などないのだから、当然といえば当然か。それでも、最後まで読んだのには理由がある。

最近、テレビや雑誌で「日本とはなにか、日本人とはなにか」というような特集を見かけることが増えた。おそらく自分もそれに影響されているのだろう、それっぽい本を買ったり番組を見たりすることが多くなった。そして、そうしたものに触れるたび、古事記を読む必要性を感じていた。必要性というか、「古事記を知っていればもっと楽しめただろうな」と思うことが多かったのだ。そしてようやく読み終えたわけだが、まだ全然「古事記を知った」という感触には程遠い。

昨年末から出版され始めた『日本文学全集』の第一巻で、編集を手がけた池澤夏樹みずからが、古事記を新訳している。池澤さんは、新訳にあたってこんなことを書いている。

なにしろ日本で最初の文学作品だから、書いた人も勝手がわからない。ごちゃごちゃまぜこぜの中に、ものすごくチャーミングな神々やら英雄やら美女が次から次へと登場する。

ああそうか。古事記にも作者がいるという当然のことを、忘れていた。その作者自身が、何をどう書いたらいいか分からないまま、一生懸命に書いたのが古事記なのだ。もっと敬意を払うべきだった。その混沌とした世界の中から、読み手が面白さを引っ張り出す。もっと能動的に読むべきだったのだ。簡単に楽しめると思っていた自分が甘かった。この新訳も読もう。