姫は、思うている


 折口信夫の小説「死者の書」を読み返すのは、もう何度目になるだろう。何度読んでも新しい発見がある。これは単純に、内容が難しいので何度も読まないと理解できない、ということもあるのだが、それにしたって飽きない。
今回は、作中で貴族の姫が行った写経よろしく、文字に起こしながら読んでいる。まあ、そのお姫さまは何年もかけて千部も写経するわけだし、向こうは毛筆でこっちはキーボードだから、全然レベルが違うわけだが、それでも自分の手でタイプしながら読むことによって、新たな視点が生まれてくる。

 折口は、「~している」を「して居る」と書く。「すわって居る」「西の空を見入って居る」等々。これは単に、この小説が書かれた年代が古いので、言葉の使い方が今とは違う、というだけのことなのかもしれないが、「している」と「して居る」では、受け取る印象がずいぶん異なる。「居る」には、「その場所に、居る」という、重みのようなものを感じるのだ。
人以外にも、例えば「あたりは俄かに、薄暗くなって居る」というような使い方もされるわけだが、これにも何か、そこを取りまく空気、あるいは空気を司っている何かが、どっしりとそこに存在するような雰囲気が感じられる。漠然とそうなったわけではなく、誰か/何かが、その場を薄暗くした。場所の重み、平たく言えば「家」の存在が意識させられる。

 日の差さない女部屋で、世間のことは何も教えられずに「居た」姫さまは、父親から贈られた、唐の最新の経典を写経することに没頭する。何年もかけて千部の写経を終え、それでも姿をあらわさない仏の姿を探し求め、嵐のなか外へ飛び出す。ここから、折口の文章は一気にスピードアップする。

姫はどこをどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡らした。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻(もとどり)をとり束ねて、襟から着物の中に、含み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。

まわりに言われるままに、おとなしく家で過ごして「居た」姫の姿はここにはない。ぼろぼろになって辿り着いた山寺で、姫は思う。

この国の女子に生まれて、一足も女部屋を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(かげろう)の立っている平原を、この足で、隅から隅まで歩いてみたい。
こう、その女性は思うている。

ここは、「思うて居る」ではないのだ。縛り付けられていた場所から解放されたことを祝うかのように、姫は「思うている」のだ。