「森」再考


数年前に初めて開いた個展のタイトルは『森を抜けると、そこは森』だった。深く考えてつけたタイトルではなく、不意に思い浮かんだものが、頭から離れなくなってしまったのだ。同じ頃、暗い森の中に少女がいる、という絵がコンペで評価されたこともあって、森をテーマにした絵を描くことが多くなった。
絵の中の森はいわゆる心象風景であって、現実のどこかというわけではない。それでも、絵にリアリティを持たせるため、御所や寺社仏閣などの森に出向いては、歩きまわったり写真を撮ったりしていた。それはちょっとした趣味になって、今でも続いている。そして最近になって、どうやら自分の「好みの森」があることが分かってきた。旅先でも、好みの森を見つけると、フラフラと吸い寄せられてしまう。

好みの森というのは例えば上の写真のような場所だが、これは後水尾天皇の毛髪と歯を納めた髪歯塚というもの。この小さな森は宮内庁によって管理されており、危険は少ない(そもそも森の中までは入れない)。それでも、近くに行ってじっと眺めていると、少しだけ怖いような感覚を覚える。その怖さこそが好みである理由なのだが、実際に身の危険はないわけで、ではなにを怖いと感じているのか。お墓なんだから、少しぐらい怖くて当然だろうとも思うが、自分が怖いと感じているのはそこではない。

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おそらくポイントは「顧みられず、ずっとそこにある」ということだ。上の写真/白河天皇陵は、高速道路沿いにポツンと存在し、隣にはガレージや給湯機器メーカーのショールームが建っている。何百年も前からそこにあるにもかかわらず、いわゆる歴史スポットとして観光化されておらず、人が訪れることは少ない。それでも天皇陵である以上、今後も無くなることはないだろう。街の風景はどんどん変わっていくだろうが、ここだけは変わらない。日常の隣に、過去が常に顔を出している。
白河天皇陵はまだ大きくて立派な方で、近所を散歩していると、もっと小さく、人に知られていない火葬塚などに出くわす。それぞれに小さな森がある。たいていの場合、足を止めて見ている人はほとんどいない。

天皇関係以外では、天塚古墳にも同じ雰囲気を感じた。京都という土地は、平安京遷都以前の場所についてはほとんど観光化されておらず、あまり大事にされていないところが多い。宅地開発によって壊されてしまったものも多いが、天塚古墳はなんとか残ったようだ。住宅街の中に唐突に現れる古墳の異様さ、その森の静けさは見事で、むき出しで過去と直結しているような場所だった。

正直なところ、そこに誰が埋葬されているとか、どんな歴史的な事件があったとか、そういうことにはあまり興味が無い。どんな場所にも等しく歴史はある。それが不意に、日常に顔を出す。こちらは気持ちの準備をしていないので、驚き、少し怖くも感じるが、それゆえにリアルだ。時代に合わせてお化粧した歴史とは違う、もっとザラッとした手触りの過去が、その森に存在しているように感じるのだ。
今あらためて、『森を抜けると、そこは森』というタイトルのことを思う。少女は森を、どちら側に抜けたのだろう。