町外れに人が集まって、何かおかしなことをやっている/パラソフィア堀川団地


『京都国際芸術祭パラソフィア』の展示を見に堀川団地へ。家から歩いていける距離にあるその団地は、戦後まもなく建てられたという店舗付き住宅だ。1階の店舗の連なりは商店街となっており、僕も時々利用する。2階3階にも入ってみたいと思っていたのだが、今もお住まいの方がいるので、勝手に入るわけにもいかなかった。今回、展示スペースとしていくつかの部屋が開放されており、初めて足を踏み入れることができた。階段はコンクリートが剥がれてぼろぼろで、部屋も狭かったが、商店街からは見えない方向に共用のバルコニーがあって、意外なほど開放感があった。そこでの暮らしを想像して、しばし感慨にふける。

その団地の一室、2DKの部屋に、ピピロッティ・リストの作品が展示されている。低い天井いっぱいに映像が広がる、その「近さ」が面白い。窓の外では、この部屋がこんなことになっているとは知らない人たちの、普段通りの日常が流れている。

夕方、同じく堀川団地のギャラリーで、笹本晃のパフォーマンスを見る。先週ギャラリーを訪れた時に映像作品を見て、そのちんぷんかんぷんさに笑い、これはぜひ生で見ようと申し込んだ。そして、目の前で繰り広げられたパフォーマンスを見ても、やっぱりちんぷんかんぷんだった。即興で適当に動いているのではなく、綿密に考え計算した上での動きだということは分かるのだが、それでもなお、何をやっとるのだアンタは、と言いたくなるちんぷんかんぷんさが面白い。

町外れの古い団地の片隅で、奇妙なパフォーマンスを見せる女性と、それを笑いながら見守る満員の観客。通りすがりの人間からは、何の集まりだか分からないし、そもそも集まっていることすら分からない。同じように、たぶん世界中の知らない場所で、知らない人が、知らない間に知らないことをやっている。自分はその「知らないこと」の当事者なのだという感覚を、アーティストと観客は共有している。その間、お互いを信頼し合っている。

パフォーマンスが終わり、客はそれぞれの方向に帰っていく。その1時間だけ、ちんぷんかんぷんを共有した仲間、またどこかで会いましょう。

ふわふわと漂いながら、芯のあるものを/フィオナ・タン


日曜、国立国際美術館で「フィオナ・タン まなざしの詩学」を見る。

会場に入って最初に見た作品は、フィオナ・タン自身の出自をテーマにした60分のドキュメンタリーだった。複雑な出自を持つ彼女には、自分は何人だという感覚や、ここが自分の場所だと思える国がない。世界中を旅し、散らばった一族に会い、話を聞きながら自分のルーツを探っていく。そんな内容だったのだが、見ているうちに、実は彼女自身、答えはどこにも無い、ということが分かっているのではないかと思った。そして、それを特に悲観的に捉えてはいないようにも見えた。

自分の属する場所が分からない。そんな、ふわふわと漂ったような状況のままで、アイデンティティを探ろうとする作品が後に続く。どれもムードは暗くなく、ウィットに富んでいる。それはとても強く、芯のある表現だった。「ルーツがしっかりしている」「地に足が着いている」ものだけが優れているわけではない。そんなものがなくても、優れた作品はできるのだと、展示が語っているように思えた。

展示を見終わり時間が経って、僭越ながら、自分が目指すところもそれなのではないかと思う。ふわふわと漂いながら、芯のあるものを。