夜の奈良/大古事記展


奈良県立美術館へ「大古事記展」を見に行く。残念ながらあまり楽しめなかったのだが、それは自分の知識と経験が不足していたのが大きいと思う。陳列されている展示物から古事記の世界を想像したり、その雰囲気に浸ったりする力が、まだ自分には備わっていなかったのだ。嬉しそうに展示物に見入る年配のお客さんを羨ましく思いながら、美術館を後にする。

外はもう真っ暗だったが、このまま帰るのも惜しい気がして、あたりを散策することにした。地図を見て、すぐに行けそうな猿沢池へ向かう。大きくて綺麗な池だな、と周辺を歩き、左手に見えた階段を登っていくと五重の塔が見えた。それが興福寺だった。
我ながら、こんな雑な観光があるものかと思う。まったく奈良のことを知らないのだ。真っ暗な中ライトアップされた五重の塔はとても綺麗で、しばらく見入る。あたりには誰もいない。風が冷たくて寒い。塔の裏手にある雑木林がざわざわと鳴っている。自分が「大古事記展」に求めていたものがここにあるような気がして、境内を彷徨く。

同じ古都でありながら、京都と奈良では雰囲気がずいぶん違う。京都は平安京のあとも長いあいだ都として栄えたためか、積み重なった情報が多く、古代の姿が見えにくい。奈良は、もっと現代と古代が近いように思える。「京都以前」にふわっと戻ったような、そんな気持ちでうっとりしながら歩いていたら、大量の地蔵に遭遇してぎょっとする。勝手に古代に思いを馳せていたことを地蔵に笑われたような気分になったが、それもまた良し。

新しい国をつくる人


SEKAI NO OWARI の音楽を初めて聴いた時、その身も蓋もないほどにまっすぐな歌詞に驚き、ちょっと怖くも感じていたのだが、あっという間に人気者になった。テレビにもどんどん出演してちびっ子にも大人気、今年の紅白にも出るという。親戚の子ども達はみんな大好きだし、僕も好きだ。
身も蓋もないほどまっすぐな歌詞、ということで思い出すのはブランキー・ジェット・シティで、彼らのことも、最初は少し怖かった。二十数年前、初めてブランキーの曲を聴いた時に思わず笑ってしまったのは、決して馬鹿にしていたのではなくて、自分とは全く違うセンスに驚き、怖がっていたのだと思う。畏れをごまかすために笑っていたのだ。

ブランキーとSEKAI NO OWARIでは使う言葉が全く違う。端的に言って、SEKAI NO OWARIの使う言葉は平易で、語彙が極端に少ない。それは歌詞の背景となるものが違うからだろう。ブランキーにとっての英米文学や70年代の外国映画に当たるのが、SEKAI NO OWARIの場合、日本のアニメやテレビゲームなのではないか。馴染みがある分、子どもたちには届きやすかったのかもしれない。そして背景は違えど、両者の言っていることは近いような気がする。

「新しい国ができた 人口わずか15人」というのはブランキーの曲の一節だが、SEKAI NO OWARIの人達もまた、新しい国をつくろうとしているようだ。一軒家を買ってメンバーで共同生活をしたり、何万人ものお客さんが仮装するライブをやったりと、こちらの想像を上回る活動を続けている。やっぱりまだ少し怖い。
彼らの新曲「ドラゴンナイト」を何度もリピートして聴いているが、相変わらず歌詞がすごい。1番と2番でほとんど同じ内容だったり、「今宵」という言葉が何度も出てきたりする。無理に言葉をいじらず、言いたいことだけをまっすぐに言う。そんな彼らの姿は、少しでも人と違うことを言いたい、面白い人と思われたい、と言葉をこねくり回している自分のような人間にとって、たいそう眩しく輝いて見える。

新しい不良


午後、道を歩いていたら、前から結構なスピードで原付が走ってきた。工事現場のような白いヘルメット/首にタオルをぐるぐる巻き/労働者風のジャンパーといった、まるで60年代の学生運動家のような格好をした人が、紺色のおしゃれなリトルカブに跨っている。ものすごく怖い顔をして突っ込んできた。新しいタイプの不良か、と思って身構えていたら、60歳ぐらいのおばちゃんだった。単に寒かっただけらしい。