新しい国をつくる人


SEKAI NO OWARI の音楽を初めて聴いた時、その身も蓋もないほどにまっすぐな歌詞に驚き、ちょっと怖くも感じていたのだが、あっという間に人気者になった。テレビにもどんどん出演してちびっ子にも大人気、今年の紅白にも出るという。親戚の子ども達はみんな大好きだし、僕も好きだ。
身も蓋もないほどまっすぐな歌詞、ということで思い出すのはブランキー・ジェット・シティで、彼らのことも、最初は少し怖かった。二十数年前、初めてブランキーの曲を聴いた時に思わず笑ってしまったのは、決して馬鹿にしていたのではなくて、自分とは全く違うセンスに驚き、怖がっていたのだと思う。畏れをごまかすために笑っていたのだ。

ブランキーとSEKAI NO OWARIでは使う言葉が全く違う。端的に言って、SEKAI NO OWARIの使う言葉は平易で、語彙が極端に少ない。それは歌詞の背景となるものが違うからだろう。ブランキーにとっての英米文学や70年代の外国映画に当たるのが、SEKAI NO OWARIの場合、日本のアニメやテレビゲームなのではないか。馴染みがある分、子どもたちには届きやすかったのかもしれない。そして背景は違えど、両者の言っていることは近いような気がする。

「新しい国ができた 人口わずか15人」というのはブランキーの曲の一節だが、SEKAI NO OWARIの人達もまた、新しい国をつくろうとしているようだ。一軒家を買ってメンバーで共同生活をしたり、何万人ものお客さんが仮装するライブをやったりと、こちらの想像を上回る活動を続けている。やっぱりまだ少し怖い。
彼らの新曲「ドラゴンナイト」を何度もリピートして聴いているが、相変わらず歌詞がすごい。1番と2番でほとんど同じ内容だったり、「今宵」という言葉が何度も出てきたりする。無理に言葉をいじらず、言いたいことだけをまっすぐに言う。そんな彼らの姿は、少しでも人と違うことを言いたい、面白い人と思われたい、と言葉をこねくり回している自分のような人間にとって、たいそう眩しく輝いて見える。

新しい不良


午後、道を歩いていたら、前から結構なスピードで原付が走ってきた。工事現場のような白いヘルメット/首にタオルをぐるぐる巻き/労働者風のジャンパーといった、まるで60年代の学生運動家のような格好をした人が、紺色のおしゃれなリトルカブに跨っている。ものすごく怖い顔をして突っ込んできた。新しいタイプの不良か、と思って身構えていたら、60歳ぐらいのおばちゃんだった。単に寒かっただけらしい。

京都御苑の人々


昨日の朝、久しぶりに京都御苑を散歩した。住んでいる部屋の壁がコンクリなので、この季節になると外よりも冷え込み、かといって暖房をつけると暑い。なので、午前中に小一時間散歩して体を温め、その熱をヒートテックで閉じ込めて、一日を乗り切ろうという算段である。毎年そんなことを言っては風邪を引いているような気もする。

この辺りに引っ越してきた当初は、京都御苑には頻繁に通って、カメラ片手に散策していたものだ。それが、慣れというのは恐ろしいもので、御苑が近くにあるという贅沢な環境にも慣れてしまい、最近はあまり行かなくなっていた。気候が良いからか、平日の午前中なのに結構人がいる。ピクニックに来ている幼稚園児が100人、ワーワーと喋っている。餌付けされてホワッツマイケルのようになったデブネコが歩いている。「母と子の森」と名付けられた場所には、確かに母と子がいる。すべてのベンチには年寄りが座っている。木々はほんの少し紅葉し始めていた。静かだが、賑やかだ。