古事記を読み終え、また読む


ようやく、鈴木三重吉の『古事記物語』を読み終えた。キンドルで無料ダウンロードしたのは、もう何ヶ月前になるだろうか。なぜこんなに時間がかかったか、理由ははっきりしている。面白くなかったからだ。面白くないので、例えばお風呂で読んでいてもすぐ眠くなるし、布団の中で読んでいても眠くなるし、椅子に座って読んでいても眠くなる。誘惑には弱い方なので、眠くなったら寝る。結果、なかなか進まないのだった。

古事記には、いわゆる主人公がおらず、神様や人物がどんどん現れては消えていく。ひとつひとつのエピソードも淡々と、関連性も見当たらないままに続いていくので、油断するとすぐに話を見失う。鈴木三重吉が読みやすくしてくれているので、文章に難しいところはないのだが、やっぱり「面白い」というものではないのだった。そもそも古事記は歴史書であって、読者を面白がらせる必要などないのだから、当然といえば当然か。それでも、最後まで読んだのには理由がある。

最近、テレビや雑誌で「日本とはなにか、日本人とはなにか」というような特集を見かけることが増えた。おそらく自分もそれに影響されているのだろう、それっぽい本を買ったり番組を見たりすることが多くなった。そして、そうしたものに触れるたび、古事記を読む必要性を感じていた。必要性というか、「古事記を知っていればもっと楽しめただろうな」と思うことが多かったのだ。そしてようやく読み終えたわけだが、まだ全然「古事記を知った」という感触には程遠い。

昨年末から出版され始めた『日本文学全集』の第一巻で、編集を手がけた池澤夏樹みずからが、古事記を新訳している。池澤さんは、新訳にあたってこんなことを書いている。

なにしろ日本で最初の文学作品だから、書いた人も勝手がわからない。ごちゃごちゃまぜこぜの中に、ものすごくチャーミングな神々やら英雄やら美女が次から次へと登場する。

ああそうか。古事記にも作者がいるという当然のことを、忘れていた。その作者自身が、何をどう書いたらいいか分からないまま、一生懸命に書いたのが古事記なのだ。もっと敬意を払うべきだった。その混沌とした世界の中から、読み手が面白さを引っ張り出す。もっと能動的に読むべきだったのだ。簡単に楽しめると思っていた自分が甘かった。この新訳も読もう。