グラフィティ、都市と郊外


映画「ビューティフル・ルーザーズ」を見る。90年代アメリカの、グラフィティやストリートアートを取り上げたドキュメンタリーなのだが、見ていて少し不思議に思ったのは、彼らの作品がとてもかわいらしかったことだ。僕の思っているグラフィティのイメージとはちょっと違う、パステルカラーなどを多用したポップな色彩、フラットなキャラクター。「かっこいい」よりも「かわいい」が強い感じで、あまり怖くない。怖くないのだが、ときおり不気味さが垣間見えたりもする。

以前見た映画「スタイルウォーズ」の、70年代のニューヨークの地下鉄を覆い尽くしていたグラフィティは、もっと直接的に怖かった。子供の頃思っていたニューヨーク=怖い街のイメージそのまま。あるいは、2010年の映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」。この映画で取り上げられていたアーティストの作品は、怖いというより、良くも悪くもヤバいムードが漂っていた。ストリートアーティストは、正規の美術教育を受けていない、いわゆる「美術業界」に毒されていない人が多いためか、時代や場所、作者の心情などが露骨に作品に現れる。どちらも都会が舞台の映画で、その都会の闇がそのままグラフィティとして投影されているように思えた。

「ビューティフル・ルーザーズ」の奇妙なポップさは、取り上げられていたアーティスト達の多くが、都会ではなく郊外出身だったことが影響しているのではないか。都会の闇は、ある意味分かりやすい。都会の怖い場所、ヤバい場所は、部外者でも何となく分かる。郊外はそれが見えにくい。闇が無いわけではなく、部外者からは見えにくいだけで、そこに生まれ育った若者には見えてしまう闇。彼らのグラフィティの、ポップな色彩、フラットなキャラクター、そして垣間見える不気味さは、彼らの住んでいた、平面的で深みのない町の風景に重なって見える。
そんな町から出て、彼らはニューヨークのギャラリーでグループ展を開く。泊まり込みで準備をしている時の、彼らの心底楽しそうな笑顔が印象的だった。心底羨ましかった。

PETER DOIGの絵


週末、かなり久しぶりに四条河原町界隈へ出た。特に用事もなかったので、昔住んでいたマンションを目指してぶらぶらと歩く。7年ぶりぐらいだが、特に何も変わっていないな、と思っていたら、すぐ近くに町家を改装した本屋ができていた。EUREKAという店名の、アート洋書専門の本屋さんで、いつも開いているわけではないらしい。すごくアートに詳しい店員さんの話を聞きながら、PETER DOIGの画集を購入する。PETER DOIGは、もう何年も前から「アマゾンのほしい物リスト」に画集を入れたままになっていた画家だ。こういうものは、たいてい買わずに忘れてしまうのだが、今回は違った。出会った時が買う時だ。

PETER DOIGがどういう人物なのか、実はよく知らない。かなり売れている画家、というぐらいの知識しかない。このインターネットの時代、調べようと思えばいくらでも調べられるのだが、あまり知りたいとも思わない。これがインスタレーションや映像作家なんかだと、出身国や年齢・思想など、バックボーンを知りたくなるのだが、画家に関しては、何故かそういう気持ちが湧いてこない。絵そのものへの興味だけが強くある。

PETER DOIGの描く絵は、とても魅力的だ。好きか、と問われると、ちょっと答えるのが難しい。好き/嫌いでは単純に分けられない、非常に「気になる」絵なのだ。なぜそのモチーフを描こうと思ったのか、どの部分から描いているのか、下絵はあるのか、あるとすれば下絵の段階で、どこまで完成形を見据えているのか。興味が尽きない。そして見ていると、自分も絵が描きたくなってくる。売れるとか売れないとかではなく、絵を描く行為そのものに快楽があることを、思い出させてくれる。

混ぜっ返し方


もう数カ月前になるが、必要があってギターアンプのことを調べていた。なるべく小型で、家で使うのに適したものを探し、ネット検索を続けるうちに、2ちゃんねるの掲示板に行き着いた。ミニアンプの製品名をあげて、これは音がいいとかあれは使い勝手が悪いとか、意見を交換する。そのうちにある人が「このアンプはゆがみがいまいちだ」という趣旨のことを言った。それに対して別の人が「ゆがみじゃなくてひずみね」と返す。漢字で書くとどちらも「歪み」だ。あっという間に「ゆがみ」派と「ひずみ」派で論争になった。

素人の僕からすると、別にどっちでもええがな、という問題なのだが、ネット上の喧嘩は一度火がつくと止まらない。「ひずみなんて言うやつは周りにいない」「それはお前が下手だからだ」などと、言葉はエスカレートしていく。こっちはそんなことよりアンプの情報を知りたいのだが、困ったな、と思って読んでいたら、こんな人が現れた。

じゃあ俺はこれから「ねたみ」って読むわ。

第3勢力「ねたみ」が現れた。不毛な喧嘩に飽き飽きしていた人達は、一気に「ねたみ」派にまわった。「マーシャルのこれはねたみが凄い」「俺もそのモデル持ってるけど、あんまりねたまないな」などと、普通にギター用語として流通し始める。さらには「大型のチューブアンプに匹敵するそねみ」などと、さらりと第4勢力を混ぜたりする輩も現れた。楽しい。話題はまたミニアンプの意見交換に戻り、喧嘩は静かに消えていった。

こういう「混ぜっ返し」のうまい人が、ネット上にはときおり現れる。どちらの側にも立たず、その喧嘩の馬鹿馬鹿しさをさらりと気付かせてくれる人。きっと仕事も出来るに違いない。嫁は美人で家庭も平和、周囲からの信頼も厚いのだろう。いやあ、ねたむなあ。